主体性を持って許し合う世界に生きること

皆さんは、こんなことをしたら迷惑になるかもと言動を控えたことはありますか?
そして、言っておけばよかった、やっておけばよかったと後悔したことはありますか?

先日、会社の人と「許し合える世界」について話をしました。
許し合えるということは、他人への迷惑を気にしなくてよいのではと。

では、その世界では迷惑そのものが許されるということでしょうか?

今回はそんなお話です。

周囲の人の優しさが気づかせてくれた許し合う世界の素晴らしさ

上述の方が飛行機での移動中に、娘さんが機内で嘔吐をしてしまったそうです。
次のフライトがあったりで大変なはずですが、フライトアテンダントの方は優しく対応してくださったとのこと。
また、近くに座っていた方も娘さんを気遣ってくれたそうです。

その経験から、お互いを許し合える世界の素晴らしさに気が付いたとのことでした。
そして、許し合えるからこそ、そこは迷惑をかけることを恐れなくてもよい世界であろうと。

そんな話から、許し合う世界について少し考えを巡らしてみました。

許し合う事で無限の可能性を解き放てる

許し合える世界にいるということは、他人の迷惑になるかもと、自分の行いを躊躇する必要がない世界でしょう。

私たちは「こんなことを言ったら・行ったら迷惑かも」と思うことで、自分の言動を制御する方が多いのではないでしょうか。
これには、KY(空気読まない)という、ある種ネガティブな印象を与えかねない状況を回避する側面があります。
一方で、迷惑をかけるかもしれないという”幻想”にとらわれることで、本当はできること・やりたいことができない場合もあります。

そう考えると、許し合える世界にいるという信念は、私たちが持つ無限の可能性を解き放つ鍵であるのかもしれません。

許されるからこそ、自分の人生の責任を自覚する

では、他人への迷惑になることを、気にせずに何でもやってよいものでしょうか?

許し合える世界では、自分の行為が許されるのは前述の通りですが、自分のしたことを他人が自分に対してすることも許し合う世界です。

つまり、その世界では自分がされたくないことは自分も行わないことが前提になるでしょう。

許し合える世界に生きるとは、

他人に迷惑をかけることを気にしない

わけではなく、

Hiro

本来の自分であるために言動を躊躇しない

ということです。

他人が迷惑と感じることを主体的に選択することが、自分のありたい姿なのか?
と問われれば、多くの人はそうではないでしょう。
私たちが主体的であれば、言動を躊躇せずとも、他人に迷惑をかけることはないのです。

自分の行いがなんでも許される世界だからこそ、自分がどうありたいかをしっかりと持ち、それに反しないための言動を主体的に選択する必要があるということですね。


己の欲せざる所は人に施す勿れ
『論語』

は、許しあう世界に生きるための戒めということになりましょうか。

もちろん、冒頭の例のように不可抗力によるものもあります。
不可抗力であれば、迷惑であってもいいと主体的に選択された行為ではないので、お互いに許し合えれば良いのかと思います。

とはいえ、社会の中で生きていると、なかなかすべてを許し合うことは難しいのも事実です。
たとえ不可抗力であっても、たとえば家族に危害が加えられた場合などは簡単に許せないでしょう。
私がその場に遭遇したら許せるのか?と問われると、正直自信はありません。

ただ、少なくとも日常的なことでは、自分がありたい姿でいることは主体性をもって選択し、躊躇せずなんでもできる世界にいたいと思います。

 

Today’s Quote !!

心の平和は、自分の生き方が正しい原則と価値観に一致していて初めて得られるものであり、それ以外はないのである。
『7つの習慣』p.442-l.5

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