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無になるということ

最近はマインドフルネス瞑想というのが流行っていますね。

私は何年か前にジル・ボルト・テイラー氏の『奇跡の脳』を読んでから坐禅をするようになりました。

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元々は右脳をもっと活性化するためにはどうしたらよいか、という問いかけから購入した書籍でしたが、その中で瞑想のクライマックスに達した状態が

左脳の機能を脳卒中で無くした状態と酷似している

先生

と神経解剖学の研究からわかったというようなことが記されています。

また、仏教系の大学に通っていたこともあり

瞑想 = 坐禅

ということで始めたのがきっかけです。

心を無にする

瞑想を行う時によく心を無にするということを聞きます。

何も考えず心を空っぽの状態にするというのですが、まぁ、普通の人にはできませんよね。

いろいろなことが頭に浮かんでは消えを繰り返しまくります。

でも最近それはそれでいいんじゃないかと思うようになりました。

無にするのは「私」

心を無にすることにこだわること自体が執着であり

  • 耳に聞こえてくる音
  • 空気の流れ
  • 座している床の冷たさや硬さ
  • 身体の感覚
  • 心に浮かぶこと

そのすべてを良し悪しの評価をせずただ受け入れることが、「私」を無にすることなんじゃないかと考えるようになりました。

これが正しいのか正しくないのか、それを論じること自体が執着なので、今、自分が納得できる考え方としてはこれかなぁと思います。

 

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